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当時の郡長室館内案内図
                    創建当時の郡長室            館内案内図
鴫山城ジオラマ鴫山城発掘品・史料
              鴫山城ジオラマ           鴫山城発掘品・史料


     高札 天和2年(1682年)


中世の南会津町田島地方

長沼義秀譲状中世の南会津町田島地方は「長江庄」または「南山」と呼ばれていました。
領主は、長沼氏といって現在の栃木県小山市出身の武将でした。初めは地頭代による代官支配でしたが、15世紀(1400年)ごろに愛宕山に鴫山城を築き、麓に城下町を作り、市(馬市・6斉市)を立てて産業を盛んにし、荒海川より用水路を引いて水田を開くなどして町を発展させてきました。天正18年まで約400年間にわたりこの地方を支配しました。
その後、長沼氏が伊達政宗につき従って田島を去った後に、蒲生氏郷が支配し、家臣の小倉作左衛門が南山城(鴫山城)の城代となりました。その後も上杉・蒲生(秀行)氏・加藤氏と短期間に領主が替わりました。
江戸時代初めの鴫山城古絵図鴫山城出土品 上 灰柚皿(16世紀前半) 下 染付椀(江戸末期)鴫山城(別名・南山城)は南会津町田島の市街地の南に位置し、南北1.3㎞にも及ぶ大城郭で「根小屋式山城」と呼ばれる形態をもつ山城です。
愛宕山山頂を中心とした山城、上千畳を中心とした内城及び根小屋式と呼ばれる家臣団集落地と外郭の三つを構成し、山頂から派生する主峰及び三つの支脈上からなる出城群、姥平と呼ばれる谷間の館跡の二つを加えた五つのブロックから構成されている。
昭和52年に城跡の発掘調査をして、出土した主なものは、灯明皿や寛永通宝(千畳跡)、天目茶碗(御平庭跡・侍屋敷)、灰釉皿、志野釉鉢・皿等が見つかる。


 享保5年の初冬、南山御蔵入の農民が一揆を起こした。一揆は、同年11月下郷の百姓およそ800名が田 島陣屋に押しかけたことから始まった。南山御蔵入領と は、会津南部、現在の南会津全域と大沼郡の大半、そ れに河沼郡の柳津町の一部を含む5万5000石の幕 府直轄地で、これを統治支配する代官陣屋が田島にお かれていた。翌享保6年1月、百姓代表15名が江戸へ 登り幕府勘定所へ13ケ条の訴状を差し出した。法度 のはずの直訴状が受理されたことに百姓は一縷の望 みをつなぎ、後登り18名が加わり、領内全域の一揆態 勢を整えた。領内271ケ村が結束し強固な組織力で資 金を調達し、代表33名の江戸訴人を支えた。
はじめ、これを軽くみていた幕府首脳を憂慮させる事態までに至ったのである。同6年4月、危機感をもった幕府は事態を収拾させるべく本格的な取り調べを開始した。
南山御蔵入騒動の「13ケ状訴状」百姓の訴状を要約すると
1,高率年貢の引下げ
2,年貢の江戸廻米の中止
3,年貢金納の村へ米納強制の反対
4,小穀割等の新雑税の廃止
5,郷頭制の廃止
等々であった。数ケ月に及び江戸に滞在してねばる百姓の抵抗に、幕府は、これを押しつぶすには、資金源を断ち、百姓の団結を分断するしかないと考えた。
惣百姓の代表を標榜する訴人達に、領内の百姓が本当に委任したかどうか、領内全戸を取り調べるという奇策をもって臨んだのである。
代官陣屋を会津藩兵が警固する中で、個別取り調べされることに恐怖を感じた百姓は処罰を恐れ、態度を豹変させた。大方の百姓が、強制されて資金を出した、村八分を恐れて加わった、などと申し立て、訴人の「惣百姓の代表」という大義名分は、もろくもくずれてしまった。
享保7年7月幕府は、農民を扇動して一揆を策謀したとして、一揆の指導者と目される名主3名、百姓3名を斬首のうえ、見せしめのため、田島鎌倉崎にさらし首にした。
しかし、百姓が差し出した願いは、幕府も認めざるを居ない部分もあった。幕府は直接百姓の要求を認めるのではなく、直支配の会津藩への預け支配に切り替えることで
1,年貢米の江戸廻米の廃止
2,年貢金納への米納強制の中止
3,新雑税の一部廃止
等百姓の要求が実現されたのである。
6名の死は決して犬死にではなかった。これら犠牲となった6名は奥会津の人々によって「南山義民」と讃えられ郷土の誇りはして代々語り伝えられている。
南山御蔵入騒動の主要な場面を挿絵と説明文により展示しております。

1,田島陣屋の図 2,検見の様子 3,年貢米を納める様子 4,岩穴で年貢対策 5,百姓が訴えの相談 6,陣屋取囲みの様子 7,訴状提出の様子 8,領内の廻状 9,村々の寄合い 10,宮床安照寺の相談 11,雪山を越え江戸へ 12,百姓代表江戸に着く 13,公事宿で訴状作成 14,訴状提出 15,勘定奉行の詮議 16,郷頭も江戸に呼ばれる 17,山田代官の取調べ拒否 18,百姓と郷頭の対決 19,江戸の情報で寄合い     



戊辰戦争後の明治12年1月、会津郡が北と南に分割されて、始めて南会津郡が誕生しました。明治17年9月会津三方道路の一つ下野街道馬車が開通し、翌18年に南会津郡役所が新築され、ようやく南会津にも文明開化の時代が到来しました。車道が開け、郡役所も新築され近代化の機運がますます盛り上がり、明治24年からは南会津町田島へも鉄道を作ろうという「野岩鉄道敷設運動」が起こりました。


 明治15年(1882)山形県令三島通傭が福島県令兼務になるとすぐ、戊辰戦争で極度に疲弊した会津を復興させるためには、馬車が通れる道路が必要と考え、会津若松を起点に新潟、米沢、宇都宮の三方向に向かう「会津三方道路」(越後、羽州、野州街道)を計画しました。
 旧街道は、道幅も狭く、山間部の峠を越えるルートであったため、馬の背中に荷物をつけて運ぶ馬背輸送しか出来ませんでした。新街道は、道幅が約5.5mになり、ルートも平坦部を通り、馬車の通行も可能になるとのことで、地域の人々の期待が高まり、同年7月に着工しました。
 しかし総工費48万円(現在の価格に換算して約160億円)の内、国庫の補助金は9万8千円でほとんどが地元負担になりました。このため15才以上60才までの男女は貧富の差なく毎月1回ずつ2年間夫役(無賃労働)に服することが強制されました。記録によれば、1日10時間も働かされたようです。また夫役に出られない者は、男は1日15銭、女は10銭の夫役代が課せられました。
 その様な中、同年11月28日、耶麻郡で強引に工事を進めようとする三島県令の圧政に反抗した喜多方事件が起こります。背景には、道路工事により大規模に豊かな農地が失われたことが一因とされています。一方南会津郡では、山際を通るルートで、農地がそれほど失われなかったため、激しい抵抗運動は起きず、むしろ道路開通を経済活性化の起爆剤にしたいとの期待がありました。
 野州街道の建設に当たっては、明治18年(1885)8月に完成する南会津郡役所の敷地を造成するために削り取った土砂を、南会津郡田島町(現南会津町)西町地区にあった湿地帯を埋め立てるために使用し、会津三方道路建設との一挙両得を、三島県令はもくろんだと伝えられています。
 会津三方道路は、多大な負担を民衆に課しながらも、明治17年(1884)10月完成しました。



佐藤耕四郎(さとう・こうしろう) 明治40(1907)年~昭和58(1983)年享年76才、南会津郡田島町(現南会津町)塩江生まれ     

 佐藤耕四郎・慧親子は、南会津郡田島町(現南会津町)西町で洋服仕立て業を営む傍ら、奥会津地方で自然と共に生活を築いて来た人々の知恵の結晶である民具を、文化遺産として子供達へ保存、継承することを目的に、その収穫に生涯を捧げました。
 昭和30年代の高度成長期には、生活様式の近代化に伴い数知れない民具が使用されなくなってゆきました。民具が捨てられるとの情報を得ると、親子で手土産を持って赴き、交渉して譲り受ける日々だったと伝えられています。
 佐藤民具コレクションは、昭和47(1972)年田島町(現南会津町)に寄託されました。田島町は旧南会津郡役所にこれを展示し、奥会津地方歴史民俗資料館と命名して開館しました。
 この開館がきっかけに、民具に関する人々の関心も高まり、数多くの町民から民具の寄贈が相次ぎました。
 平成2(1990)年には、佐藤民具コレクションを含む5,058点が国の重要有形民俗文化財に指定されました。現在は、奥会津博物館(南会津町糸沢地区に所在)で展示(約3,000点)、収蔵(約21,000点)されています。



馬場滋雄(ばば・しげお)号翠園(すいえん)子交(しこう)明治4(1871)年~昭和8(1933)年享年62才、南会津郡桧枝岐村生まれ

 医師、馬場滋雄(号翠園子交)は、明治33(1900)年南会津郡田島町(現南会津町)に馬場医院を開業しました。「医は忍術也」のことば通り、思いやりや慈しみをもって診察にあたりました。貧しき人からはお金はとらず、往診を頼まれば、深夜や遠方もいとわず出かけ患者を救いました。また、俳号・子交の名で「オクヤマ」(俳句の愛好団体)で俳人として活躍しました。
 さらに、「南山時津風日の出の松」「南山義民の碑」(現在でも会津田島祇園祭などで上演されている)の歌舞伎台本を創作するなどの文化活動にも巾広い足跡を残しています。



湯田玉水(ゆだ・ぎょくすい) 本名、和平 明治12(1879)年~昭和4(1929)年享年50才、南会津郡田島町(現南会津町)西町生まれ

 玉水は、子どものころから絵が大変得意でした。12才のころ会津田島祇園祭の屋台にトンボの絵本張りました。それを見た大人は、あまりの絵の上手さに驚いたというエピソートが残っています。
 玉水は、27才の頃日本画の重鎮・川端玉章に入門し、絵の修行に打ち込みました。そして明治40(1907)年第1回文展に自信作「双花之図」を出品しました。玉水は入選をうたがいませんでしたが、結果は落選し大変ショックを受けたそうです。
 玉水は、この落選をきっかけに日本画から南画(主に水墨で自然などを対象に描く絵画様式)に転向しました。独自の画風を確立し、評価を高め数々の展覧会で入選を果たしてきました。しかし、円熟期を向かえつつあった昭和4年50才の若さで亡くなりました。



杉原夷山(すぎはら・いざん) 明治10(1877)年~昭和19年(1944)年享年67才、南会津郡田島町(現南会津町)西町生まれ

 希代の読書家として知られる夷山は、生涯にわたり知的好奇心を燃やし続けた人でした。夷山は、その博識を支えとして漢学者、漢詩人、美術鑑定家、水墨画家、書家、陽明学者、郷土史などの分野で活躍し、数多くの作品、著書を残しました。
 書家の落款(署名や印)を研究した著書「日本書画落款印譜集成」は、日本最大の落款印譜集として現在も美術鑑定家のよりどころとして使われています。



室井平蔵(むろい・へいぞう)慶応元(1865)年~昭和3(1928)年享年63才、南会津郡田島町(現南会津町)長野生まれ

 平蔵は、南会津郡役所、大蔵省、日本銀行などで勤務する傍ら、民俗学の創始者・柳田国男らと交流を結びながら、奥会津地方の学術研究にその生涯を捧げました。「福島県南会津郡ニ於ケル土器石器控」は南会津郡の考古学のさきがけとなった著作です。
 研究分野は、考古学のほか歴史学、民俗学、和算研究、郷土史名との分野におよび、後の研究者に強い影響を与えました。



 
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